▶ 夫妻の肖像画
・下の左の写真は「宮部圓成餘芳」から、右ご夫妻の油絵は圓龍寺に所蔵されています
・アングルから、圓成師の油絵は写真からか?、しかし油絵の顔の方がスッキリした感じである
・奥様の油絵があることから、圓龍寺で二人を書いたものかもしれない
▶ 加工画像
▶ 宮部円城師の生家(法信寺)
・宗派名が「真宗東派」となっているが、理由は下記のごとく
・明治5年に東西本願寺派で宗派名を東派と西派とすることで確認したが、西本願寺は本願寺派と名乗る
・東本願寺派約束通り東派としたが、明治11年頃に真宗大谷派と改めた
▶ 年表
宮部圓成 みやベ・えんじょう (1854~1934) ・・・豊橋百貨事典、他より
・嘉永 7(1854)年4月9日、近江国浅井郡宮部村(滋賀県長浜市宮部町)の法信寺に生まれる
・元治元年(1864)、漢文国学和蘭学を小桐宗伯に学ぶ
・慶応 2年(1866)4月、倶舎論を蓮元慈廣師に学ぶ
・明治 2年(1869)3月、京都知積院にて唯識を学ぶ
・明治 5年(1872)、推挙されて真宗会議所の幹事に任命される
・明治 7年(1874)4月、大阪師範学校大津傳習場を入学3ヶ月で甲種卒業
・明治 9年(1876)4月、長浜に大谷派小学校が設立、教授方を命ぜられる
・明治10年(1877)4月、備中国江原興譲館にて7ヶ年漢文を専修する
・明治16年(1883)3月、興譲館経書課歴史課詩文課の全課を卒業する
・明治17年(1884)4月、真宗高倉大学寮に入学
・明治19年(1886)7月19日、真宗高倉大学寮の専門部を卒業、以来毎年高倉大学寮で聴講
・明治21年(1888)6月9日、井上円了の洋行に同行で横浜港から出港(初代金之助の支援あり)
・明治23年(1890)4月上旬、井上円了の帰国の2ヶ月前に帰国
・明治36年(1903)2月、特選賛衆に列せられ、教学商議員を命ぜられる
・明治39年(1906)10月、東本願寺法主現如上人の特命により、圓龍寺初代住職に任命された
(兼務の住職が圓成師の前に二人います)
・大正11年(1922)11月、総会所布教係を命ぜられる
・昭和 6年(1931)、東本願寺宗務顧問となる
・昭和 9年(1934)10月20日、亡くなる前に権僧正(上から4番目)に任命さ れる
・昭和 9年(1934)10月22日、亡くなる(亡くなる前に権僧正(上から4番目)に任命さ れる)
・昭和12年(1937)1月、圓龍寺境内に座右の銘としていた「みてござる」の碑が建てられた
*明治21年の圓成師の洋行には初代金之助も資金支援をしており、圓成が圓龍寺の住職となったのは、
金平と初代金之助の意向が強かった
▶ 神富殖産㈱とのやり取り
・神富殖産㈱の大量な情報が、三重県総合博物館に収録されており公開されてます
・作成にあたっては、三重県総合博物館の所蔵資料検索データベースを利用いたしました