▶ 文字画像は神野金之助重行から
▶ 神富殖産㈱の情報(三重県総合博物館より引用)
・圓龍寺に関するものと思われるもの
▶ 梵鐘の銘文
昭和18年3月14日、太平洋戦争で供出させられた円龍寺の梵鐘は、明治31年、先代神野金之助の発願により制作された。父金平と四代富田重助等と共に寄進したもので、それは口径3尺、重量250貫の大きさで、その第一池の間には、つぎのような銘文が刻まれていた。
圓龍寺鐘銘幷序 円龍寺の鐘銘ならびに序
神富山圓龍寺本在山城伏 神富山円龍寺はもと山城伏水に在り
水明治二十九年移之于三 明治二十九年、之を
河渥美郡神野新田新田尾 三河渥美郡神野新田に移す
張神野氏之所開也廣千町 新田は尾張の神野氏の開く所なり。広さ千
余居民数百戸皆属此寺本 町余。居民数百戸は皆この寺に属す。本年
年鑄洪鍾乃為作銘曰 洪鐘を鋳る。乃ち為に銘を作りて曰く
東海神氏 篤奉真宗 東海の神氏 篤くく真宗を奉じ
散財三歳 開田勸農 財を散すること三歳 田を開き農を勤む
乃建精舍 新鑄華鐘 乃ち精舎を建て 新たに華鐘を鋳り
覚了迷夢 聽者改容 覚めて迷夢を了れば 聴く者は容を改む
爲德立善 以殄妖凶 徳を為し善を立て 以て妖凶を殄し
信德忘己 萬人時雍 徳を信め己れを忘れ 万人時に雍らぐ。
明治三十一年戊戌十月 明治三十一年つちのえいぬ
文學博士真宗學師
南條文雄 撰
神野新田では、終戦後の農地改革が至って円満に終結し、民主農村の建設が着々と進んでいく中、ありし日の金之助翁の声を伝えようと「懐しの鐘」の音の再現が企画させられることになった。 そして、神野新田の縁がある四百数十名の檀家は、圓龍寺の梵鐘の新鑄寄進に慶讃し、鋳師には桑名市矢田町の中川祐次が選ばれた。
この再鋳の梵鐘は、従来のものよりやや大きく、口径3尺2寸、鐘身5尺5寸を有し、300貫の電気分銅、50貫のバンカ錫(インドネシア西部にあるバンカ島で取れた錫)をもって躊込まれたものである。
躊込の式は昭和27年9月24日午後2時30分と決まり、この日神野新田よりは円龍寺住職ほか、世話方34名が桑名の鋳場へ赴き、同3時鋳込が行われた。
梵鐘の上帯には東西に日月瑞雲を配し、乳は5段7列とし、條帯には無量寿経よりの「天下和順(てんげわじゅん) 日月清明(につがつしょうみょう) 風雨以時(ふうういじ) 災厲不起(さいれいふき) 國豊民安( こくぶみんな) 兵戈無用(ひょうがむゆう) 崇徳興仁(しゅうとくこうにん) 務修礼譲(むしゅらいじょう)」が東本願寺現法主聞如上人の染筆で刻まれている。
そして第一池ならびに第三池の間には、前記南條文雄の撰文が再刻の跋文と共に掲げられ、第二池および第四池の間には、楽天人が刻まれている。 草の間には雲上楽器、下帯には川端龍子が画いた楓の線刻がある。この鑄金技術の監修には、帝室技芸員、芸術院会員香取秀真があたった。 再鑄の寄進をした四百数十名の芳名は、梵鐘の内面に陽刻されている。
なお、この梵鐘は昭和27年10月5日桑名市役所に於て開催された全国鋳造業者大会に展示された。そして、出来上った梵鐘は、昭和27年10月25・6の両日、梵鐘再鑄の盛大な供養法要が同寺鐘樓において厳修それた。それは、300名の稚児の練供養、始鐘の式につづいて、20の衆僧は3千枚の行道散華を行った。このほか、奉納舞楽や女子青年団の合唱会、協賛の活花会などがあり、とくに宗務顧問の上野馨師並びに講師柏原祐義師の説教も連日あって、神野新田は法悦に浸ったのであった。
寺鐘聞ゆる村法悦に耕せる 句 佛
------------------------------------------
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起 國豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲」
世の中が平和で、人民は安穏であるようにと願い唱える偈文で、天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、努めて礼儀と謙譲の道を修めます、という意味。