▶ 宮部圓成師は明治・大正の大説教師であった
▶ 宮部圓成師のレコード
レコードも多く出されてます
・明治、大正を代表する大説教者としてウキペディアに掲載されてます。
・節談説教の流行の項目の下の方にお名前が出てます
(上の茶色の文言をクリックするとウキペディアにリンクします)
・レコードも出されているようです、左の画像をクリックすると拡大します。
▶ 宮部圓成師のレコードの宣伝チラシ
宮部圓成師のレコードの宣伝チラシ(2019.09.03ネット購入した)
下にある文章は宣伝文言を書き出したもので、その中に『家庭娛樂』の文字があるが、説法は落語や浪曲の始まりとも言われ、当時は流行った。
以下、コマーシャル文言
真宗大谷派特授布教師 宮部圓成師は 對機說法の妙を得られ宗の自他を問はず 貴賤老幼の別なく各階級に亘りて師の教化を受け て安心立命し 斯の憂苦多き世の中に 喜び喜びの生活を成しつつある者 幾許なるを知らざること 世人の能く知る處なり 然れども 未だ師の教に接するの機會を得ざる人も多かるべく 又親しく教を受けたる人も 其教へに接することの 稀なるを遺憾さする人も少なからざ るべきを慮り 今回師に乞ふて左のレコード を得たれば請ふ各位一組を購求ありて 家庭娛樂のに法味を嘗め 安心立命したまはんことを
▶ 宮部圓成師についての説明動画(神野新田開拓百年記念誌から)
以下、原文
関山和夫著「説教の歴史」(岩波新書)には宮部圓成師は近代の名説教者として西本願寺派の木村徹量,真宗大谷派の服部三千麿,同じく亀田千巌らとともに挙げられ、次のごとく記されている。
「真宗大谷派(東本願寺派)において、本願寺派(西本願寺派)の木村徹量と並び称せられた説教の巨匠に宮部円成(嘉永7年〔1854]~昭和九年
〔1934〕) がある。宮部円成は、明治・大正期に大谷派きっての大説教者として、豊かな声量と爽快な弁舌で全国にその名を知られた。近江出身の宮部円成が、東本願寺の大檀越・神野金之助の招きによって三河豊橋の円龍寺(現豊橋市神野新田ツノ割)へ迎えられたのは明治39年10月、52歳の時であった。宮部は、天性の弁才と不断の精進によって説教者として若くして一家をなし、明治初年に早くも説教界に頭角をあらわしていた。円龍寺へ来た時は説教の大家として全盛時代であり、彼の名説教は東本願寺特命布教使として高く評価された。宮部は席のあたたまる暇もなく全国各地へ説教の旅に出た。神野新田から豊橋の駅までは相当な距離だ。人力車に乗る宮部の後を、荷物をかついだ随行(弟子)が走ってついていく光景がしばしば見られた。明治の末ごろの秋の彼岸に東京・浅草本願寺(現東京本願寺)で口演した宮部円成の名説教は、満堂の聴衆をうならせ、堂内には鯨波の念仏があふれたという。美貌,美声,卓越した話芸、端正な高座姿が聴衆を魅了したのである。彼岸会の説教初日から満座まで30,話の種類は二百数十に及ぶ。法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の御一代記がすぐれた演出をもって活写され、経典の解釈や真宗教義を説くことは素より、得意の節談説教で絶大なる効果を見せた。「忠臣蔵」や「関取千両幟」は宮部円成の十八番であった。すべて譬喩因縁談として巧みに挿入された。「忠臣蔵」における寺岡平右衛門出牢の恩典のことや浅野内匠頭の仁慈が構超他力の合法となって進行し、安心決定のために結勧(結弁)に全力を投入する。その技量は抜群であった。庶民の好む芸能から惜しみなく材料を取り、そのネタを鮮かに使ってみせた。そして「聞即信」の聞の含法をもって一席を巧妙に閉じた譬喩の場には芸があり、よどみなく語って、あとは一瀉千里に結勧に至る。このすぐれた宮部の説教は年とともに円熟していった。
宮部円成は、木村徹量とともに、まさに明治・大正期の説教の雄であった。明治45年4月15日に「親鸞聖人六百五十年御遠忌」を円龍寺で催した時には,一世一代と称する名説教を演じた。この日、京都の東本願寺より現如上人・大谷光瑩二十二世法主の寄錫があり、数万人にのぼる参詣人が円龍寺内外を埋めた。この時、宮部円成は満堂の群参に得意の「呼ぼり説教」を演した。高座の上から大勢の聴衆に呼びかけるように語尾を長く 引っぱりながらするこの方法は、マイクのない時代には、すこぶる有効であった。
あらゆる難関を克服して神野新田を完成し、円龍寺を建立して宮部円成を住職に迎えた神野金之助(1849~1922)は、類稀なる篤信家であった。彼の東本願寺への貢献ぶりは絶大なものがあった。神野が苦心して作った神野新田は広大である。蜿蜓と続く防波堤のみごとさ。范洋と広がる開墾地の豊かさ。海面埋立面積は一千百町歩。これを海とへだてる築堤は延長3里(12キロ)にも及ぶ。この新田開発のころの入植者の生活は言語に絶するほど貧しいもので、わら小屋がぽつんぽつんと並び、その中で暮らしていた。入植者の苦悩に満ちた生活を乗り切らせた唯一の娯樂機関は説教所であり、ここで説教を聴くことが農民たちのたった一つの心のなぐさめであった。円龍寺はそのような環境の中に建立され、宮部円成は救世主のように迎えられたのであった。神野金之助の新田開発事業を助け、その遺志を継承した神野三郎(1875~1961)は「宮部円成という坊さんは、なかなかのえらものだった。この人は本山の推挙で京都からこられたのだ。当時まことに殺風景そのものであった新田へ来た円成師は、人々を集めて毎日のように話をしていた。ご本山のなかでも指折りの説教師だったので、その話はとても上手で、お爺さんやお婆さんだけでなく、若いものたちも随分熱心に聴いて心を磨いていたものだ (「神野三郎伝」と述べている。
「説教の歴史」岩波新 1978年)