初代金之助翁について

▶ 圓成師の金之助翁の追悼談から


書籍「神野金之助重行」で宮部圓成師が初代金之助翁に付いて語ったと紹介されている

宮部圓成師嘗て(かって)語って日ふ「自分は江州出身で、當年七十八歳になるが、本山に入って布教使を勤めた頃から、金之助翁父子と相知り、明治三十九年、現如上人(光瑩)の特旨により、候補者数人の中より選ばれて圓龍寺住職となったのである。

是れは先大人金平翁の遺旨もあり説経の出來る僧侶を必要としたからであった。

自分が新田に來た頃は小作人の家は二百五六十戸であったが、其頃木曾川改修工事に依りて立退きを命ぜられた農家が移住した者などが、冬の小作納期が済むと或は北海道へ轉住するとか、或は遠州三方ヶ原の豊饒地を慕うて去り行行く等、毎年五・六戸は絶えなかった。

又新田の農家は初の頃は屑葺の屋舍であったが、其後次第に瓦葺と爲り、年一年と農家が安定した。

ひと頃は夜分に風強く吹さて松の梢が濤の音に聞えると、ソレ洪水だ海嘯だと騒ぎ立てたものだが、一年と安定するに從って、嚮に北海道其他に去った小作人等も段々帰を希望する様になって来た。

二人講が出来てから後は、農民の貯蓄出來、大に生活に安心してゐる。

自分の聞いた所では、二人講は當主金之助氏の發案で神野三郎氏が之を贊助したものである。

畢覚新田住民の安定して今日の平和郷を見るに至ったものは、彼の雄大強固なる大堤防が竣成の後、年を經るの久しきに随って住民に大安心を與へた果であると信ずる。」云々。

宮部師は又日ふ「先代金之助翁は、新田青年の會合せる場所などに於て能く演説したが、要旨は租先を大切にする事、親に孝行をする事、夫れには宗教を信じなければならぬ事を骨子として親切に説き教へ、夫れが殆ど口癖のやうで有った」と。 翁の敬祖追孝の事蹟は別條に詳述する所であるが、此一話を以てしても、翁一代の事業が奉佛の真心から出発しているを想像するに難からぬのである。