圓龍寺建立の詳細経緯

▶ 概要

 明治32年中、豊橋大谷派別院より当新田に新設した説教所は、毛利新田時代の明治25年の破堤で全て漂流し、その後牟呂村の本村地内に移し、以来同派豊橋別院より毎月一度僧侶を派遣し説教会を実施していたが、住民の多くは離散し、説教の聴聞に来る者がいないため説教会を減らすことになり、結局は有名無実の状況であった。

 そのため大谷派本山執事の渥美契縁師等に寺院建立を相談すると、師も大に賛成したが何分寺院建立をするには現在の規則では容易に許可が得られない。

 しかし、幸に京都府の伏見に無住で廃寺同様なった圓龍寺という寺院があり、その寺籍を譲受け、その後に寺院移転の認可を得るのが都合が良いとの話となり、豊橋別院の輪番船見の惠眼師に協議を試みた所、惠眼師も大にし賛成し、渥美契縁師等の所説は筋の通った良い方法なので進めようとの意見であった。

 それぞれ協議して以前の大谷派説教所を廃止し、更に土地の準備として新田内の字(つ)の割に寺院の境域を2,000坪と定め、惠眼師を圓龍寺の住職として該寺を当方に移し、又そのお堂を初め一切の建物、並びに永代維持金等は都で寄附することと定め、明治28年9月上に趣旨を京都本山、及び京都府と愛知県庁へ出願して、29年8月31日に移転の許可を受け、同時に管長に請いして一躍した別除音地の寺格を得ることになった。

 以来、仮堂宇をもって住民はもち論、附近村落の信徒のため、時々名僧を招いて宗教の普及を図り、人心を改善することに勉めた。

 その成果は近年では大いに成功したため寺院の新築を決断し、明治32年径3尺の梵鐘を鋳造し、鐘楼を新築した。 また同年より本堂始め材料集めに着手し、詳細は次のようである。  

  ・本 堂 1宇  奥行 15間   梁行 12間    ・鐘楼堂 1宇

  ・庫 裏 1棟                    ・玄 関 1棟

  ・書 院 1棟                                                                  ・その外廻廊初め附属の建物

  以後、成工を急いだが、巨大な木材等を運送する事が容易ではなく、明治34年10月16日に地鎮事、及び起工式を挙行し、35年10月13日に立柱式を行った。

 この間、日に数百の役夫を監督し工事を大きく進行し36年4月15日を期して上棟式を執り行い、引続き工事に関わる全てを取急ぎ、仏前の飾りを初め一切の備付に至るまで全て揃え、37年4月15日をもって遷佛供養会を勤めた。 居住者の慶びは言葉では表せないほどであった。


▶ 年表(明治37年、初代金之助著:神野新田紀事、他 より)

  ・明治23年、豊橋大谷派別院より当新田に説教所を新設

  ・明治25年、堤防決壊により説教所漂流以来、説教所を牟呂村本村に移し毎月一度の説教会を

         実施するが住民散乱にて聴聞に来る者なし

 

       ----- 上記は毛利新田時代の出来事、下記は神野新田時代の出来事 -----

 

        ・大谷派本山執事 渥美契縁師 等に寺院建立を相談、京都伏見にある圓龍寺の移転を目指す

        ・豊橋別院輪番船見 惠眼師 に相談、説教所を廃し新田内のツノ割に寺院境域2,100坪を定め

            惠眼師 を圓龍寺住職とし、建物一式と永代維持費等を寄付することを定めた

        ・明治28年 9月、京都本山並びに京都府と愛知県庁に出願(初代神野金之助翁、47歳の時)

        ・明治29年 8月31日、圓龍寺移転の許可を受ける。鎗屋町の圓龍寺に有った本尊・祖師大師・七高僧の影像と

             仏具一切を移すことを決めた。同時に管長に懇願し別助音地の寺格を得る

        ・明治30年 5月  7日、仮堂宇を建てて、荘厳な遷仏式を行った

        ・明治30年 5月20日、仮堂宇に移転完了、仮堂宇に高僧を招いたので近隣の村落からも人が集まった

        ・明治30年12月16日本山より山号「神富山」を付与された

            (山号の読みは シンプウ山 と圓龍寺に伝わっている

        ・明治32年、径3尺の梵鐘を桑名で鋳造、1年で亀裂が入り豊川で再鋳(昭和18年3月太平洋戦争で供出)

         本堂始め材料収集に着手、本堂は下の仕様

                               (奥行15間X桁行12間)、庫裏、玄関、書院、その他回廊初付属の建物

        ・明治34年  1月、鐘楼堂の建築にかかる

        ・明治34年  4月、鐘楼堂の落成、盛大な鐘供養式を行った

        ・明治34年10月16日、地鎮と起工式(巨大な木材の運送等に手間取り日程が遅れたもよう?)

              地盤が軟弱なため本堂は一丈(3メータ)掘り下げ人造石を敷き詰めて補強した、

              また、災害時の避難所とするため差卸(意味を調べても出てこない)を設けた

        ・明治35年10月13日、立柱式

        ・明治36年  4月15日、上棟式

        ・明治37年  4月15日、完成(初代神野金之助翁、56歳の時)

   * 圓龍寺の寺格は当初の「飛椽地」から「別除音地」になり、「一等別除音地」から三河の国における

      最高唯一の「國巡讃地」となる

        ・明治39年  11月、宮部円成(1854年-1934年)が初代住職となる

        ・明治40年頃、初代金之助が改姓(ジンノからカミノへ)したようである、資料館の大正12年は違う

        ・明治45年、宗祖太子の御遠忌の執行にあたり山門を建立

        ・明治45年  4月15日、法主光瑩伯(東本願寺第二十二代法主・真宗大谷派管長)が来田され、数万人の

              参詣者があったとのこと、現在も法主光瑩伯のお手植えの松はある   

        ・大正11年2月20日、金之助翁亡くなる(初代神野金之助翁、74歳)

        ・平成16年、本堂の改修


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 ・渥美契縁師が伏見の圓龍寺を神野新田に移すことを提言してくれた

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