真宗大谷派 神富山圓龍寺 由緒記
当寺の寺歴は、元は、京都府山城国伏見町字鎗屋町にあり、創建由緒は不詳。 元亀天正の頃、石山合戦に際し兵火に遭い堂塔を焼煙する。 後、守賢の代に再建を成し、寛永12年孟夏3日宣如上人より阿弥陀如来木像を授かる。
明治26年、初代神野金之助氏は、先に計画を失敗した毛利新田の開拓権を譲り受けて、独特な築堤技術と神野・富田両家の合同企業である紅葉屋の資産を傾け、同29年に完成する新田の開発が始まる。
この時神野金之助は、新田経営者として、神社と学校と寺院の建立の三大方針を定め、特に信仰については「寺院を建立し、高徳の僧を請うじて住職たらしめ、日となく夜となく農民の寸暇をはかり一堂に会して応報因果の道理を説き善悪正邪の分別を教え、尚国法徳義のなんなるや及び地主と小作人の権利義務等を聴かしめ、老若男女を遷善感化せしむること」(神野新田紀事) とあり、当山の淵源もまたここに存するのである。 金之助は平生の奉佛済衆の信念に基づいてここを信仰の地たらしむべく、時の大谷派本山の執事渥美契縁師に詣り、新寺建立を申請したが、時の政府は新寺建立を許可しない方針だったので、渥美師より山城国に無住同然の寺がある。
その寺籍を譲り受け、寺院移転の許可を得ることとし、 明治28年、金之助氏は、同23年に現在の当寺所在地南方約 4 町のネノ割に建てられた豊橋別院支配の吉田説教所を解消して、新寺院を創立することにし、東本願寺の斡旋により京都伏見の圓龍寺を移転する形式で、同説教所を現在地に移し、圓龍寺の本尊祖師七高僧を将来安置。
事務管掌上豊橋別院輪番(2代目)三河別院輪番(初代)兼務の船見恵眼師を仮住職(明治28年から同31年)とし同30年工事一切を完了。
・同30年5月7日遷仏法要を行った。
・同12月16日本山より山号「神富山」を付与された。(神野・富田両家から命名され、読みは「しんぷうさん」。)
さらに当寺を新開地の精神道場たらしめんと発願。
・明治31年、平野龍音師(名古屋教区第11組、愛西市陽南寺住職、明治31年から同39年)兼務住職とし、10月南条文雄博士
より、圓龍寺梵鐘銘並びに序を受ける。
・同32年より、本堂の使用材集めに着手(福井・静岡両県)。
この年、梵鐘(径三尺)伊勢桑名の鋳業者に命じたが一年あまりで亀裂を生じ、改めて豊川金物業中尾氏に再鋳され爾来
四十数年に亘って「励ましの鐘」「慰めの鐘」として響き渡ったが、昭和18年3 月戦争のため供出され、現在は昭和27年
に再鋳されたもの。
・10月、蓮如上人四百回御遠忌を勤修。
・同34年1月新伽藍の建設に着手。 基礎工事は堅牢を極め、地下五メートルから地上三メートルにまで人造石を敷き詰め
間口十二間半、奥行き十五間。 約百八十坪の敷地を固めて海水侵入の万一に備えた。
・4月、鐘楼完成。
・10月16日、本堂起工式。
・明治35年10月13日 立柱式。
・同36年4月15日上棟式。
・同37年3月、本堂内陣が四間であるため、見真大師諡号御影、宗祖大師御絵伝を新たに本山より授与される。
・同37年4月15日 遷佛供養会が厳修される。
・同39年 玄関書院を建設。
・この年10月、宮部圓成師(52歳)が現如上人(光瑩)の特旨 により正住職を拝命せられた。(金之助の父金平の遺旨も
あり、神野・富田両家も師の篤い信者でもあり、両家から本山への懇請によるものであった。) 圓成師は、江州(滋
賀県)の出身であって、嘉永7年4月9日滋賀県浅井郡虎姫村字宮部の日光山法信寺に生を受け、法信寺第14代住職であ
り、また本山の布教師でもあった。 宗教家としては、同志社の新島襄と親交を結び稀に見る逸材であった。
また海外の宗教事情視察に1ヶ月渡航し能弁達識の士であった。この事は、関山和夫著『説教の歴史』に詳しく述べられ
ている。金之助氏としても、ここに圓成師を迎え、宿願成就の日の来たことを感謝したことであろう。
・明治44年 山門を建設。(神野新田事務所の明治45年の日誌に1/6に「山門の土台石を岡崎に発注で出張」とあり、明治
44年に山門の建設が決まり、完成したのは御遠忌前の3月頃と考えられる)
・明治45年4月15日親鸞聖人六百五十回御遠忌法要を厳修。 本堂の白木造りを全部箔塗りにし、改めて総ての金具に鍍
金を施した。 これを記念とし、4月20日現如上人、本堂前に松を植樹。
・大正4年句碑建立。「植えおけるまつ久しかれ春の風」愚邸
・大正10年水舎建設。
・昭和8年高塀を建設。
・昭和9年10月22日 初代圓龍寺住職宮部圓成師 入寂(81歳)法名 龍音院釋圓成、
・昭和10年7月25日 宮部正師 第二代住職を継承する。
・昭和27年10月26日 供出した梵鐘を再鋳。
・昭和31年11月12日 開山円成師生涯の箴言五字を刻んだ「みてこさる」の箴言碑を建立する。
・昭和37年11月3日~6日 親鸞聖人七百回御遠忌・蓮如上人 四百五十回御遠忌を厳修する。 これを記念とし、慶宿縁の碑
を建立。 「遇いがたき祖師の遠忌に二度あいてわか身の深きえにしを憶う」呂風(正師の諱)
・昭和38年3月10日 第二代住職 宮部正師 入寂 (64歳) 法名闡聖院釋圓晃
・昭和38年6月 宮部一夫師 第三代住職を継承する。
・昭和48年8月 庫裡の建替えする。
・平成元年10月29日 第三代住職 宮部一夫師 入寂(59歳) 法名,速往院釋照
・平成元年12月6日 宮部唯能 第四代住職を継承する。
・平成14年10月~平成16年4月23日 本堂屋根替並びに玄関書院新たに建設する。
・平成16年10月1日~3日 本堂修復諸殿落慶法要・開創百年記念法要・蓮如上人五百回御遠忌 法要を厳修する。
・「しんぷうざん」と読みが書かれている、現時点では唯一の書籍で「牟呂の教育 百年のあゆみ」より
・「百年のあゆみ」は牟呂小学校創立百周年を記念して牟呂中学校と共同で作製したもの
・圓龍寺三代住職提供の写真の説明に「しんぷうざん」とあるが圓龍寺から聞いたはずである
・山号は平成9年に建てられた山門前の石碑に刻まれているが、それまでは見られる額や碑は無かった
・「しんぷうざん」と音だけ聞いて漢字は「ぷう」を「風」と勘違いしたと考えられる
・山号は山門前の石碑が建立される前には、どこにも「神富山」と書かれたものはありませんでした
・地元ではお寺は圓龍寺とだけ読んでおり、山号のことを聞いたことがありませんでした