宮辺圓成師の木像
宮部圓成の木造は喜寿を記念して作られました。 作者は石本暁曠(暁海)で帝展には審査不要で出展できる実力者でした。 木造は昭和9年の第十五回の帝展に出展されています。

▶ 2022.10.21に圓龍寺提供の資料

 ・像の即品名は「宮部圓成喜寿像」、寄贈した社友会の情報は見つかっていません

 ・像は昭和7年7月完成とあるので、聞いていた昭和6年の納品は違うことになる

 ・帝展に出展されているとあり、出展中に圓成さんは亡くなった(昭和9年10月22日)


石本暁曠覧会のWikipedia


▶ 色んな展覧会に出展された肖像を纏めたもののよう

 ・宮部圓成 帝国美術院第15会美術展示会図録 第三部 彫塑、石本暁曠


▶ 評価


▶ 圓龍寺の本堂に安置された木像

2019年秋、木像は本堂の脇間から外陣に移されました


▶ 木像が圓龍寺に来た時の写真

 ・下の額の右下に2体見えるが、1体は石膏かもしれないとのこと 

 ・最右下の写真:像の左が石本暁海氏?、右が宮部圓成師、その右が奥様?と思われる


 帝展に出展された木像と作者の石本暁海(暁曠)

木像の話

  石本暁海/暁曠(ぎょうかい/ぎょうこう)が宮部圓成師が亡くなった年の昭和9年(1934)の第15回

 帝展に 《宮部圓成師》という左の写真の木彫出品されていた。(写真に説明文言もあり)

  上記の情報は趣味の彫刻史さんのTwitterから連絡頂いたものです。

 

 

石本暁曠いしもと ぎょうこう

 ・明治21年(1888)~昭和10年(1935)島根県能義郡広瀬町(現在の安来市)の木工の家に生まれ、別号を

 暁海,本名を恒介といった。

 ・松江中学校を卒業後,京都に出て、神坂雪佳の佳都美会に所属して工芸家と交わり、明治38年(1963)京都市

  立美術工芸学校彫刻科を卒業し、上京して同郷の米原雲海(高村光雲の弟子)に師事した。

 ・大正元年(1912)第6回文展に「清韻」が初入選、以後文展・帝展に出品を続け、昭和6年(1931)には帝展無

  鑑査(作品は審査を受けず出品できる待遇が与えられた)となった。

 ・大正4~11年(1915-22)信濃国善光寺の仁王像を師雲海と制作し、大正9年(1920)京都市上京区長者町に転籍

  して八坂神社や北野天満宮の青銅獅子狛犬像の原型制作にあたる。

 ・昭和8年(1933)から京都市立美術工芸学校の教員となるが、昭和10年に亡くなった。


 木像が違うように見る件(比較:左が帝展、右が圓龍寺蔵

 ・目線が違って見えるが、木像は乾燥などで変形か、又はアングルかの違いか

 ・数珠の珠の輪の形が違うが、圓龍寺は壊れて修理時に短くなったと思われる

 ・中啓(扇子みたいな)土台とは一体では無かった(過去にはのり付けしていたかも


 15回帝展へ